2013年8月17日土曜日

貞明皇后      三笠宮崇仁親王


4人の皇子

皇子[編集]

大正天皇との間には4男を儲けた。

皇子及びその妃達との関係[編集]


関東大震災の被災者を慰問 (1923年)
姑として、香淳皇后には何かにつけて厳しかったという。皇族出身(久邇宮家の嫡出の王女で、身位は女王)であった香淳皇后に対する家柄への妬み(貞明皇后は五摂家九条家の出身ではあるものの、嫡出ではなく庶子である)と、周囲の人間から考えられていた。
香淳皇后自身は、かなりおっとりした性格で、学齢まで高円寺近くの農家里子として逞しく育てられた貞明皇后とは、根本的に価値観の不一致があった。加えて久邇宮家自体が、外戚であることをかさに身勝手な振る舞いが多く、貞明皇后の不興を買う一因にもなったようである。貞明皇后から香淳皇后に注意は女官長を通じて行なわれていたが、貞明皇后に仕える竹屋津根子皇太后宮女官長、香淳皇后に仕える竹屋志計子女官長は姉妹であり、互いに言伝しにくかったと回想している。
宮中で仕える女官長や女官が実際にその衝突を目撃したのは、大正天皇崩御の数ヶ月前、皇太子(昭和天皇)夫妻が療養先である葉山御用邸に見舞った際である。香淳皇后がである貞明皇后の前で緊張のあまり、熱冷ましの手ぬぐいを素手ではなく、手袋(今も昔も女性皇族は外出の際は手袋を着用する)を付けたまま絞って手袋を濡らしてしまい、「(お前は何をやらせても)相も変わらず、不細工なことだね」と言われ、何も言い返せずただ黙っているしかなかった。頭脳明敏で気丈な性格の貞明皇后ではあったが、目下の者にも決して直接叱責することはなく、この一件を目の前にした女官たちに、二人は嫁姑として全くうまくいっていないと知らしめる結果になってしまった。

貞明皇后   ウィキペディア
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宮崎駿は、八切史観を学んでいるようです。なかでも、極めつけは、この「千と千尋・・・」の最後で、千尋が、友達なった、龍の本当の名前を、「ニギハヤミ コハク(琥珀?)川」と、読んでいました。小生は、ニギハヤヒとは、大和朝廷ができる以前、それも、応神天皇が来る以前の、縄文・海洋・騎馬などの各部族が、融合していた時の、冠位名としての「日本国王」のこと、と理解しています。当時は、国境も確定されておらず、日本列島は自由な大地でした。 特に、中国大陸で凄惨な戦力争いに苛まれたものいとっては、まさに、地上天国に映ったはずです。多くの部族が、平和共存いていたのではないでしょうか。「ニギル」とは、和睦する、約束するの意味ではないでしょうか。当時は、まだ、日本列島には、所有権の設定もなく、また、 一家族の世襲財産も なかったでしょう。基本は、「物々交換」「原始交易」、そして「互助制度」です。
 
中国からの亡命者以外に、原始キリスト教徒や、ユダヤの失われた十支族も、このころは、自然に 融合したのではないでしょうか。(もし、日宮弊立や眞名井神社ついて、真実をお知りになっておられたら、何事であれ、御教授ください。パレスチナ問題解決の鍵になっています。)サンカは、こうした形態を、明治期まで残してきたのではないでしょうか。いま、ヨーロッパに倣って、アジアでも経済統合の動きが急です。
 
その主役は、華僑、なかでも客家です。この客家と、日本の天皇家の関係が重要です。(6)明治維新史の背景には、八切・鹿島・松重でも気付いていない もう一つ大切な事実があります。それは、昭和天皇の母の存在です。勿論、九条節子ではありません。宮中で、「さる方」と呼ばれ、1912年に、孫文が中華民国を建国した時に、日本で、三教会同を時の首相に開催させた人物です。名前は、朱貞明。 1860年生まれで、実は、明を建国した朱元璋の末裔です。ボルネト島の現在のブルネイ近くに拠点を持ったいましたが、禁門の変のあとに日本に亡命し、一旦は、孝明天皇に幼女に迎え入れられました。
 
しかし、 維新の後、一旦は、中山忠能が預かり、この客家グループとの関係が必要な明治政府は、今度は、皇太子嘉仁の妃として、抱えなおします。よって、大正妃は、二人いることになります。昭和天皇の、中華民国に対する姿勢を考えますと、この貞明の影響があったとしか考えられません。ちなみに、大正妃は、生前から、貞明皇后と呼ばれていました。
九条節子   朱元璋末裔
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三笠宮     ウィキペディア
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三笠宮崇仁親王

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三笠宮崇仁親王
Prince Mikasa 2012-1-2.jpg
2012年(平成24年)新年一般参賀にて
続柄大正天皇第四皇子
称号澄宮
身位親王
敬称殿下
お印若杉
出生1915年12月2日(97歳)
東京府
配偶者高木百合子
子女甯子内親王
寬仁親王
宜仁親王
容子内親王
憲仁親王
父親大正天皇
母親貞明皇后
役職War flag of the Imperial Japanese Army.svg 大日本帝国陸軍(最終階級:少佐
貴族院議員
東京芸術大学名誉客員教授
東京女子大学講師
中近東文化センター名誉総裁
日本赤十字社名誉副総裁
他多数
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三笠宮崇仁親王
所属組織大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴1935年 - 1945年
最終階級少佐
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三笠宮崇仁親王

選挙区貴族院皇族議員
任期1935年12月1日 - 1946年5月23日
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三笠宮崇仁親王(みかさのみや たかひとしんのう、1915年大正4年)12月2日 - )は、日本皇族歴史学者(専攻は古代オリエント史)、陸軍軍人(最終階級陸軍少佐)。大正天皇貞明皇后の第四皇子。今上天皇の叔父にあたる。御称号澄宮(すみのみや)。身位親王皇室典範における敬称殿下お印は若杉(わかすぎ)。勲等大勲位皇位継承順位第5位。
現在存命中の皇族の中では最年長者であり、「三笠長老」の敬称を奉られることもある。「三笠宮」の宮号[1]は、1935年(昭和10年)12月2日に崇仁親王が成年式を行った際に賜ったもので、奈良市三笠山にちなんで命名された。

略歴[編集]


1922年(大正11年)、大正天皇の4皇子。最年少が澄宮崇仁親王

1946年(昭和21年)、国鉄横須賀線にて

生い立ち[編集]

1915年大正4年)12月2日、大正天皇と貞明皇后の四男として誕生。高松宮宣仁親王から10歳年下(長兄:昭和天皇とは14歳差)の末子のため、大正天皇と貞明皇后の意向で3人の兄と違って御所で育てられた。
学習院初等科中等科を経て、1936年(昭和11年)に陸軍士官学校(48期、兵科騎兵)を卒業。陸士在学中の1935年(昭和10年)の成年式に伴い、三笠宮の宮号を賜り、同時に大勲位に叙せられる。習志野陸軍騎兵学校を経て、陸軍大学校(55期)を卒業する。陸士時代には、辻政信が自ら願い出て教育を担当した。辻とはのちに同じ支那派遣軍で勤務している。
1941年(昭和16年)10月22日子爵高木正得の次女百合子と結婚。寬仁親王ら三男二女をもうけた。

軍人として[編集]

太平洋戦争大東亜戦争)開戦後、陸軍大尉時代の1943年(昭和18年)1月から翌1944年(昭和19年)1月まで、コードネーム「若杉参謀大尉」(姓は印にちなんで作られた)として南京支那派遣軍総司令部中国戦線全陸軍部隊を統括する総軍)に勤務。総司令部は着任に際して部隊内に通達を出し、勤務中の待遇及び食堂での食事の際の礼遇について周知している。若杉の正体は秘匿されていたため、部内にはかなり後期まで、若杉参謀が三笠宮であることを知らない者も多かった。支那派遣軍勤務中には、中国語のエキスパートであった通訳の木村辰男から中国語と中国事情を学んでいる。その後、大本営参謀に転出。三笠宮「1943年1月、私は支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任しました。そして1年間在勤しました。その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました」[2] 「聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけ離れたものであったからこそ、そして、内容が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないかということである」「こうして聖戦に対する信念を完全に喪失した私としては、求めるものはただ和平のみとなった」。[3] 帰国後、戦争終結を模索し、同僚の津野田知重陸軍少佐らと共に東條内閣打倒のクーデター計画を立てるが、東條英機暗殺、主戦派数百名大量粛清などその過激な内容に躊躇し、自ら憲兵隊に通報。津野田らは逮捕され、クーデター計画は未遂に終わった。成功時には支那派遣軍総司令官の職に就く予定であったと言われる(津野田事件)。
事件への関与は明白であったが不問に付され、1944年(昭和19年)9月、願い出て陸軍機甲本部付に左遷。津野田はじめ他の将校も軽い処分で済まされた。こうした経緯があったためか、1945年(昭和20年)4月に長兄・昭和天皇に対面を願い出た時には「何を言うつもりなのかな」と天皇が不安がったとも言われる。終戦は航空総軍教育参謀たる陸軍少佐。

戦後[編集]

3人の兄たちとは年齢も離れており、四男として皇位継承の可能性もほとんどなかったことから、かなり自由な立場で行動している。
1947年(昭和22年)4月に東京大学文学部研究生となり、歴史学を学んだ(専攻はオリエント史)。1955年(昭和30年)東京女子大学で講師として教育に当たったほか、青山学院大学専修大学天理大学拓殖大学でも教壇に立ち、日本オリエント学会の会長も務めた。1979年昭和54年)東京都三鷹市の中近東文化センターを、出光佐三出光興産創立者)の協力を得てを設立し、同センター総裁を長く務めた。2006年平成18年)に同センター図書室がリニューアルオープンした際には、その功績を記念して「三笠宮記念図書館」と命名された。1991年平成3年)にはフランスの「碑文・文芸アカデミー」の外国人会員に就任、また1994年(平成6年)6月にはロンドン大学東洋アフリカ研究学院の名誉会員に就任した。
1950年代後半から紀元節の復活への動きが具体的なものになってくると、考古学者・歴史学者としての立場から、神武天皇の即位は神話であり史実ではないとして強く批判し、積極的に復活反対の論陣を張った。編著「日本のあけぼの」はこのときに刊行されたものである。このため「赤い宮様」ともてはやされた。一方で復活を推進する人々は三笠宮を激しく非難し、なかでも里見岸雄野依秀市は、三笠宮を「無責任」「非常識」「左翼」と罵倒し、皇族の身分を離れることを要求する著作を公表している。右翼団体の構成員が宮邸に押しかけて面会を強要した事件も起きている。[4]
2012年(平成24年)現在、今上天皇のおじ・おば、すなわち昭和天皇香淳皇后の兄弟姉妹の中で存命しているのは香淳皇后の弟の東伏見慈洽と三笠宮のみである。
90歳前後あたりから僧帽弁に異常が見つかりたびたび僧帽弁閉鎖不全で入退院することがあった。 2012年(平成24年)6月14日に長男の寛仁親王の斂葬の儀(葬儀)に出席した翌日の6月15日に体調をくずし聖路加国際病院に入院した。 当初は過労によるものと診断され1週間の入院の予定だったが、僧帽弁閉鎖不全のため心機能と血圧が低下し、あらためて鬱血性心不全と診断された。 7月2日には集中治療室に入り、7月11日川副浩平医師の手術を受けた。その後ふたたび集中治療室で治療を受け、8月31日に退院した[5]11月21日には高円宮邸で行われた三男の高円宮憲仁親王十年式年祭霊舎祭に出席し、退院後はじめて公の場に姿を現した。

人物[編集]

  • 幼少時より文才を認められ「童謡の宮さま」と呼ばれた。大正時代の詩作品には作曲家によって曲がつけられ、レコードも発売されている。また1957年(昭和32年)に百合子妃と共に『句集 初雪』(新樹社、著名は三笠宮若杉・ゆかり)を出した。
  • 日本レクリエーション協会総裁として、『レクリエーション随想録』(非売品、1998年)を出している。
  • 古代オリエント史、特にアナトリア考古学を専門とする歴史学者として知られ、長らく東京女子大学などで古代オリエント史の講義を担当、「宮さま講師」と通称された。社団法人日本オリエント学会設立にかかわり、同学会会長を務めた。同学会では三笠宮オリエント学術賞が創設された。ほかに岡山市立オリエント美術館名誉顧問なども務めた[6]
  • 財団法人中近東文化センター(東京都三鷹市)の設立にも尽力。また同センター総裁として、トルコ共和国でのカマン・カレホユック遺跡の発掘調査を進め、近年は現地における常設の研究機関アナトリア考古学研究所の建設を進めている。
  • 陸軍時代に支那派遣軍に在籍していた関係から、日中国交回復前夜には中国の招請を受けた。語学にも堪能であり、流暢な中国語ヘブライ語を操る。学術関係の公務において他の皇族と同席する機会も多い。
  • 東方学回想 VIII 学問の思い出〈3〉』(刀水書房、2000年)に、護雅夫中根千枝ら5名と座談会で回想がある[7]

系譜[編集]

三笠宮崇仁親王父:
大正天皇
祖父:
明治天皇
曾祖父:
孝明天皇
曾祖母:
中山慶子
祖母:
柳原愛子
曾祖父:
柳原光愛
曾祖母:
長谷川歌野
母:
貞明皇后
祖父:
九条道孝
曾祖父:
九条尚忠
曾祖母:
唐橋姪子
祖母:
野間幾子
曾祖父:
野間頼興[8]
曾祖母:
不詳
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三笠宮崇仁     ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%AC%A0%E5%AE%AE%E5%B4%87%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

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